雲鶴山法心寺

慶長6年(1601)肥後(熊本県)のお殿さま加藤清正公によって建立されました。
当時、鶴崎は肥後の飛び地になっており、交通の重要なところでした。参勤交代の時など熊本城を出て、阿蘇を越え、鶴崎の港から出港し、瀬戸内海を経て海路、大阪・江戸へ向かったのです。
清正公は、日蓮宗のたいへんな信者でした。自分の寝泊まりする鶴崎の地に「南無妙法蓮華経」のお題目をお唱えする道場がなくてはということで京都本圀寺常林院日榮上人を招き、法心寺を建立されたのです。
法心寺には清正着用のヨロイや遺品の数々が今でも残っています。
また、本堂の前には大分市指定の名木「いちょう」があり別名「逆さいちょう」といわれ、本堂建立の際清正公が持っていた杖を地面に突き差したのものが、今の大木となり、枝が逆さに出ているのだという伝説があります。
清正が慶長16年に病死して以来、追善供養の法要が行われるようになり今では二十三夜祭といい夏の風物詩として親しまれています。

加藤清正公

永禄5年 (1562) 名古屋市中村区で、父清忠と母伊都の間に生まれる。幼名を虎之助。少時より母親伊都の縁をもって豊臣秀吉に仕える。
賤ケ岳の合戦等多くの戦功をたて、天正11年 (1583) 3000石を与えられる。同13年従五位下主計頭に叙任。
同年、父清忠菩提のため、京都本圀寺日真上人を招き大阪に本妙寺を創建。
同15年讃岐(香川県)の領主尾藤知宣改易に際し、秀吉の配慮により尾藤家の武具調度一切を与えられる。このときから、従来の家紋蛇の目に併せて尾藤家の家紋桔梗を用いる。
翌16年肥後(熊本県)の領主佐々成政改易、肥後を小西行長と共に分与され熊本城主となり、25万石を領す。同年小西行長の要請を受け、天草の志岐城を攻略。文禄元年 (1592) 朝鮮の役に従軍。
慶長5年、関ヶ原の戦いでは肥後にあって東軍に属し、九州の西軍小西行長の宇土城、立花宗茂の柳河城を攻略。その功により行長の旧領及び豊後(大分県)鶴崎地方を加封、54万石を領す。
慶長8年従四位下肥後守に叙任。秀吉の旧恩に酬いるため、慶長16年二条城における徳川家康と豊臣秀頼の会見を成功させる。
同年6月24日未明、熊本城において死亡。本圀寺日桓上人のもとに葬儀中尾山中腹に廟所を造営、遺骨を納めた。現在の本妙寺浄泄廟がそれである。法名浄泄院殿永運日乗大居士。

7月23日 午後7時 「二十三夜祭」加藤清正公ご命日
(鶴崎の夏の風物詩・宗派を越えた清正公さまのお祭りです。)